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「それから」はニセモノくさい [雑記]

昔調べた,「それから」についてです。

「それから」は三四郎の続編か

 主人公が三四郎の大学生(小川三四郎)から、「それから」の大学を出た人間(長井代助)となっていることから、「それから」が三四郎の続編のように考えられがちである。実際には、漱石は「それから」を三四郎の続編のつもりでは書かなかったはず,と私は考える。

 まず、三四郎と代助とは出身が違う。三四郎は九州出身の田舎者であったが、代助は都会育ちの文学や美術の愛好家である。

次に、
「それから」はニセモノくさい印象を与える

 「それから」は、注意深く計算された綿密な構成であることは、誰もが認めるだろう。そして、行き届いた技巧についても感心しないわけにはいかない。しかしながら、「それから」にはつくられたものという印象を感じる。

 つまり、「それから」は、自然と生じたものの一部を書いているとは思えないということである。しかしながら、「それから」に書かれていることが起こらないとは言えないし、登場人物も無理なく作中で自然な位置を占めている。しかしどこかつくられた感じがするのである。

 漱石は「それから」を書くときに、書くことだけに神経を集中させていたのに違いない。読者をある地点に導き、そこであるものを見せ、そして感じさせ、考えさせるのである。漱石は書いている時点で意識的に読者を見せたい場所に導いているのである。

 あまりに用意が行き届いているために、どことなくつくったものという感じを与えるのであろう。この点が「それから」における技巧上の唯一の不注意だろう。

 作中で最も性格が生きているのはもちろん主人公の代助である。次に三千代である。他の人もありそうな人であり、よく書けている。

 性格が簡単で、ある種類の代表者として実に巧く書けているが、個性を有する人とは思えない。彼らは作者が言いたいことを言えるようにつくってきた人なのである。

 その境遇にありそうな人であるように注意して書かれている。作者の考えを発表するために、あまりに都合のいい人のみ出てくるためだろうか、つくってあるようという感じを免れない。このような人たちを登場させたために、「それから」に現れる思想は深くなり、広くなっている。

 しかし、生々しい感じを与えていないことは、作品として損をしているようである。ただ代助のみが個性を有している。このような個性を有している人を描くことができるのはただ漱石独りであろう。それだけ、漱石と代助との間には共通点があるように思われる。

 このように、大介と漱石が似ているという指摘は多くある。代助と漱石との精神的な類縁関係が認められることと、2人が共有するものの多さからも当然であろう。

 しかし、漱石は三四郎を含め代助も自分をモデルとはしていないと言っている。都会育ちの漱石が田舎者の三四郎を書いたことにも無理があるが、代助もある意味では漱石自身の対極に位置する人物である。


2008-01-18 19:56  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

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