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ほおずき市で浅草寺へ [雑記]

ほおずき市で浅草寺へ

7月9日と10日は,浅草寺のほおずき市で,休みを使って行ってみました。

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銀座線です。

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平日の昼間ですが,仲見世も意外と混んでいました。

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混雑はこのくらい。

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ホオズキは2500円均一でした。

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この日のお札は黄色のカバーがついていました。

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この日限定の雷除けも売ってました。これは500円。

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ゆっくりとお参りをしたい,という方には,左手(花屋敷側)にあるこちらがお勧めです。生まれ歳ごとの守り本尊(?)がすべて揃っています。

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こちらでは,携帯用の雷除けを売ってます。これは800円。

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浅草寺のネコか?

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あまりかわいくない。

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ここにいた。

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でした。



空気嚥下 [雑記]

空気嚥下

 高校生くらいの頃,空腹でもないのにお腹がグルグル鳴って,ひじょうにイヤに思っていた。

 何かの折りに,札幌医科大の解剖の先生の講演を聴いていたなかで,空気嚥下の話がはさまっていた。

 若い頃は気にしていたのに,今では何とも感じなくなってから解決した。

 神経質な人,という断りがつくので,これがかつての私に当てはまっていたのかどうかは別として,肺換気が過剰(つまり過換気)になりやすく,日頃から多量の空気を嚥下しているという。

 これが空気嚥下と言われるもので,腸内ガスを増加させることと関係している。

 神経質な人でなくとも,食事のときには食べ物と一緒に,ある程度の量の空気を嚥下している。

 このように飲み込まれた空気の一部は上方に吐き出されるが,これはゲップである。

 ゲップとして排気されなかった残りの空気は,消化管中を先に進んで,その途中で一部は吸収されるものの,大部分は大腸まで達してしまう。

 大腸に至ると,細菌の作用で,炭水化物その他の物質から生じた水素,硫化水素,メタンガスが加わり,腸内ガスとなって排出される。これは放屁(オナラ)である(放屁の臭気の大部分は硫化物によるもの)。

 ヒトの消化管内に存在するガスの量は,正常時では約200mlで,1日の産出量は500~1.500mlである。

 腸内ガスにより腸がケイレンするような収縮が起こり,お腹がグルグルと鳴る腸鳴を起こしたり,腸の不快症状を感じる人もいる,とあっさり終わるのだが,これが気になったこともあった,という話でした。

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菖蒲とアヤメ [雑記]

菖蒲とアヤメ

 菖蒲とアヤメは同じことを知った。違うかと思っていた。

 ところで,昨日,電球が切れたのでさくらやへ行ったついでに,Macを見た。買おうか?

 今のPCは,5年前に購入のDELL。そろそろ,こちらも危ない。そのうち止まるか?

 Macは,10年くらい前まで使っていたのだが。もう一度乗り換えますかねえ。

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 上の写真は,菖蒲ではありません。何だろう。



アナタが院長(1) [雑記]

 歯科医院の院長になっていただき,歯科医の日常を体験していただく企画です。

 今回は,診療を始める前の儀式(?)についてです。

 診療を始める前には,使用する器具をすべて消毒・滅菌しておかなければいけません。すべてをディスポーザブルで済ますわけにはいかないので,器具を使い回しするわけです。

 汚い器具を使用することは,患者さんに思わぬ感染症をうつすことになるので,厳禁です。

 さて,その方法ですが,

 使用した器具は,まず,食器と同じように洗剤を使って汚れを落とします。洗剤とスポンジを使って,傷を付けないように汚れを落とします。

 器具に付着した汚れにはいろいろとあります。患者さんの唾液,ときには血液,使用した薬剤などです。これらは,流水下で,洗剤を使うことで落とすことができます。

 汚れが強固に付着している場合は,薬液で溶解したり,超音波洗浄機を使用します。

 つづいて,温水で油分をすべて洗い流します。

 その後,よく拭いて,磨いて,水分を取り除きます。

 飲食店であれば,これで次のお客さんに使うお店もあるかもしれませんが,歯科医院では,最後にオートクレーブという機械を使って滅菌します。

 オートクレーブは,2気圧以上,120度以上の,高圧高温で細菌を死滅させることができる機械です。これで,安全に使用できる器具となります。

 以上の操作は,診療を始める前というよりも,診療が終わった後に行った方がいいでしょう。

 さて,アナタが歯医者だったら,以上の操作をどのように行いますか?従業員に任せっきりにしますか?ちゃんとやってくれないかもしれませんよ?たまには手を抜かれるかもしれません。

 器具なんてピカピカでなくても構わない,というのならばそれで結構です。でも,うす汚れた器具を使っている歯医者のウデは,知れたものでしょう。

 アナタが一流の歯医者であるならば,使う器具もきれいに整備されていなければ満足できないはずです。

 ピカピカに磨かれた,清潔で,滅菌された器具しか使いたくなければ,以上の操作は自分で行わなければなりません。

 結論として,一日の診療が終わった後は,その日に使った器具を洗って,磨いて,消毒・滅菌してから帰宅することになります。



生物の自然発生説 [雑記]

 生物はどのようにして,この地球上に現れたのだろうか,ということは高校のときに習ったような気がします。

 地上への生物の出現に関しては,ダーウィンの進化論による強い影響を私たちは受けています。つまり,地球上の生物(細菌からヒトまですべて)は共通の祖先を持っている,と信じて疑わないということです。

 しかし,中世以前では,そのようには考えられていなかった,とうことはよく話題になり取り上げられています。

 たとえば,ギリシア人はゴミ箱からネズミが生まれてくると信じていたし,さらにその前の古代のエジプト人は,ナイル川の濁水からヘビが生まれると考えていたくらいです。

 中世以前の人々の考えに従えば,生物が無生物から生まれてくることになりますから,ネズミとヘビとヒトが共通の祖先を持つことにはなりません。

 このような自然発生説は,時代とともに衰退していきましたが,今でも,「ウジがわく」という表現に自然発生説が信じられていた時代の面影がうかがえます。しかし,「ウジがわく」とは,ハエが卵を生みつけたからだ,ということを承知のうえで使っている表現です。

 奇妙なことですが,19世紀になっても,細菌のような微生物に関しては,自然発生説が根強く残っていたようです。これは,18世紀のイギリスの司祭ニーダムに責任があると言われています。

 当時,肉入りスープを放置しておくと腐敗するのは,微生物が増殖するためであることは分かっていました。スパランツアニは,スープを煮沸後に密閉することで微生物が出現しないことを見い出し,微生物についても自然発生説を否定しています。

 しかし,先のニーダムは,スパランツアニの実験では,煮沸と密閉により容器内から「生命力」が除去されたために,微生物が発生しなかったのだ,と反論し,自然発生説を主張しました。

 驚くことに,その後の100年間,微生物の自然発生の論争に結着がつかなかったのです。

 1862年に,パスツールは,スープを容器で煮沸後,その容器の口をスワンの首のように細長く伸ばせば,密閉しなくても微生物の発生はみられないことを証明しました。この場合には,空気中にあると仮定された「生命力」は容易にスープに触れるはずなので,自然発生説は全面的に否定されたのです。

 こうして「生物は生物のみから生じる」という考えが確立されると,当然,では最初の生物はどうしてできたのかという疑問が出てきます。

 ダーウィンはこの問題を自分では考えようとしなかった,と言われています。

 パスツールは,自分の実験は生物の自然発生を根本的に否定するものではなく,スープの中に微生物が生まれるのを観察できるほど頻繁には,生物の自然発生は起こらないことを証明したのだ,と考えていたようです。

 確かに,どこかで少なくとも一度は,無生物から生物の自然発生が起こらなければ,現在のわれわれの存在はなかったはずですから。



「それから」はニセモノくさい [雑記]

昔調べた,「それから」についてです。

「それから」は三四郎の続編か

 主人公が三四郎の大学生(小川三四郎)から、「それから」の大学を出た人間(長井代助)となっていることから、「それから」が三四郎の続編のように考えられがちである。実際には、漱石は「それから」を三四郎の続編のつもりでは書かなかったはず,と私は考える。

 まず、三四郎と代助とは出身が違う。三四郎は九州出身の田舎者であったが、代助は都会育ちの文学や美術の愛好家である。

次に、
「それから」はニセモノくさい印象を与える

 「それから」は、注意深く計算された綿密な構成であることは、誰もが認めるだろう。そして、行き届いた技巧についても感心しないわけにはいかない。しかしながら、「それから」にはつくられたものという印象を感じる。

 つまり、「それから」は、自然と生じたものの一部を書いているとは思えないということである。しかしながら、「それから」に書かれていることが起こらないとは言えないし、登場人物も無理なく作中で自然な位置を占めている。しかしどこかつくられた感じがするのである。

 漱石は「それから」を書くときに、書くことだけに神経を集中させていたのに違いない。読者をある地点に導き、そこであるものを見せ、そして感じさせ、考えさせるのである。漱石は書いている時点で意識的に読者を見せたい場所に導いているのである。

 あまりに用意が行き届いているために、どことなくつくったものという感じを与えるのであろう。この点が「それから」における技巧上の唯一の不注意だろう。

 作中で最も性格が生きているのはもちろん主人公の代助である。次に三千代である。他の人もありそうな人であり、よく書けている。

 性格が簡単で、ある種類の代表者として実に巧く書けているが、個性を有する人とは思えない。彼らは作者が言いたいことを言えるようにつくってきた人なのである。

 その境遇にありそうな人であるように注意して書かれている。作者の考えを発表するために、あまりに都合のいい人のみ出てくるためだろうか、つくってあるようという感じを免れない。このような人たちを登場させたために、「それから」に現れる思想は深くなり、広くなっている。

 しかし、生々しい感じを与えていないことは、作品として損をしているようである。ただ代助のみが個性を有している。このような個性を有している人を描くことができるのはただ漱石独りであろう。それだけ、漱石と代助との間には共通点があるように思われる。

 このように、大介と漱石が似ているという指摘は多くある。代助と漱石との精神的な類縁関係が認められることと、2人が共有するものの多さからも当然であろう。

 しかし、漱石は三四郎を含め代助も自分をモデルとはしていないと言っている。都会育ちの漱石が田舎者の三四郎を書いたことにも無理があるが、代助もある意味では漱石自身の対極に位置する人物である。



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